「舞楽図」から伝わるシルクロードの人々の面影
入手した本は、「故実叢書 舞楽図 左・右」2冊 「故実叢書 舞楽図説 全」1冊 計3冊。 「故実叢書 舞楽図 左・右」の方は、 高島千春・北爪有郷著 吉川弘文館,明治38年発行。 色刷木版25×18.3センチ 大槻如電識 「故実叢書 舞楽図説 全」は、天地23×15.3センチ。刊記はないが明治期のもの。
もともと文政6年髙島千春が上梓した「左舞」に加えて大槻如電が亡友北爪老人の図を見つけ、借用、鈴木秋湖に模写してもらい故実叢書に左右を合わせて刊行したそうだ。(舞楽図の跋文より)
刊記のない「故実叢書 舞楽図説 全」の方は本の大きさも違い、少し新しい時期なのではと考え、吉川弘文館に問い合わせしたら、この時期の資料は全くないとの返事で分からず、もう一社明治図書のものではと考え問い合わせをしたところ、本の大きさなどが異なり、明治図書のものではないことが分かった。それではと国会図書館の資料をパソコンで調べたがよく分からず、国会図書館まで出向いてみた。いろいろ調べて頂き「舞楽図説」の方も「舞楽図」と同じ明治末期のものということになった。いずれにしても色刷り木版の図面を眺めていると、東西の交流の姿が、写し出されているようで楽しいものだ。
広辞苑によると、舞楽(ぶがく)とは、①舞を伴う古楽の総称。奈良時代以来行われてきた古典的な音楽舞踊で、唐樂・高麗楽などアジア各地のものを含む。今日では雅楽の名で行われているとあった。
前述のように「故実叢書 舞楽図説 全」には刊記はないが末尾に 「乙巳七夕起筆中秋成稿 六十一翁 大槻如電」とある。明治38年に該当する。その如電によると、「舞楽は総て外国伝来の楽曲なり神功制韓の御時吉士舞を伝へしぞ初なるべき」とし、舞楽の分類として中国系の舞楽を左方(さほう)、朝鮮半島系の舞樂を右方(うほう)、の二つに大きく分けられているが、如電は 「右方も、余は新たに高麗樂渤海樂と分称し、左方も亦唐樂天竺樂と分かち雅楽は総て四部となせり」と記している。
そして左方の舞として左舞(さまいまたはさぶ)、右方の舞として右舞(うまいまたはうぶ)と呼び、通常は左(サ)、右(ウ)とのみ唱えるとのこと。 舞台へ登場するときも、舞台後方の左側から舞人が現れる左舞に対して、右舞の舞人は舞台後方の右側から現れ、また、二分化とともに、左右の演目を一組とする番舞(つがいまい)がある。
舞楽図に載っている左舞は39図、右舞が29図さらに陸王、胡飲酒をはじめとする樂面が21面描かれている。舞人が着る装束は、木版の舞楽図をみても良く分かるが左舞が赤系統の装束を基調とするのに対し、右舞は緑系統の装束であることが基調となっている。樂面のなかなかユニークな表情からも、タタール人 ウイグル人 ペルシャ人はたまたインド人だろうかなどとシルクロードの写真やテレビ報道などを思い浮かべながら推測してみる。
如電の【調子 律呂】の解説は「壱越調双調大食調を呂とし平調黄鍾調盤渉調を律とす」とある。私は発音不明瞭で「ろれつがまわらない」のだが、この言葉も関係ありと思い調べてみると「呂と律」という音階が合わないことを「呂律が回らない」と言ったことから、一般にも広まり「言葉がはっきりしないこと」を意味するようになったようだ。一方、京都大原三千院を挟んで流れるふたつの川、右手の川が呂川、左手の川が律川で 声明の呂(呂旋法)と律(律旋法)にちなんで付けられたそうなので、この舞楽と仏教の声明との接点もあったのだと思いを巡らす。また私はこれらの舞楽は、全くの素人だが、演目の目録を眺めていると「萬歳樂」があり、これは漫才の源流なのだと分かってくる。
これら舞楽は、時代とともに日本独自のものに変化してきたようだが、踊りのしぐさや舞楽面の絵を見ても、正倉院の宝物と同じようにヨーロッパや中央アジ文化がシルクロードを通して日本列島にたどり着いた証のように思える。
大槻 如電(1845-1931)は、明治から昭和初期にかけて活躍した学者・著述家。「言海」を執筆した大槻文彦の兄であり、多方面に才能を発揮した知識人で、日本の伝統音楽に精通していた。(2018年12月8日) (2018/5/5)
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